カコとイマをつなぐ架け橋 オオサカ橋跡マニア カコとイマをつなぐ架け橋 オオサカ橋跡マニア

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公開日2021.07.09

紹介してくれるマニアさん

伊藤 純さん

大阪市立大学卒。帝塚山大学非常勤講師。大阪歴史博物館の学芸員を務めるかたわら、大阪市内で遺跡調査にあたり2017年に定年退職。著書に『大阪の橋ものがたり』(共著)などがある。

大阪の歴史に欠かせない橋の面影を探して

江戸の「八百八町(はっぴゃくやちょう)」に対し、浪花の「八百八橋(はっぴゃくやばし)」。808という数はともかく、現在も橋がなくても橋がつく地名、心斎橋や四ツ橋、鶴橋などが思い浮かびます。江戸時代、大坂は日本の物流の中心でした。各地の藩は自領で収穫された米をはじめ、特産物などを大坂に運んで売りさばき、自藩の財源としていました。物資を運搬する手段は船でした。そのため、物資を運び込むために大坂の市中には、堀川(運河)が張り巡らされていたのです。堀川とは人工的に造られた運河のことで、岸には各藩の蔵屋敷が建ち並んでおり、江戸時代の後期には170もの蔵屋敷があったそうです。大坂には市中を流れる何本もの堀川があったため、水で隔てられたこっち側と、向こう側を結ぶためにたくさんの橋が架けられていました。

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目次

橋は物流システムの変化によって姿を消した

かつて物流の中心は船でした。しかし、明治以降、鉄道の世になると貨車の比重が高くなり、さらに昭和・戦後社会では自動車が主流となりました。役割を終えた堀川は、昭和30年代以降次々と埋められ、堀川に架かっていた橋も姿を消していったのです。

橋跡を知り地域の歴史と文化に思いを馳せて

写真:大阪市建設局所蔵
町は造り替えられ、日々変化しています。また、橋に限らず不要になった施設は廃棄されていきます。しかし、変化する町の中で心の豊かさを育んでくれるのもまた、地域の歴史と文化への理解と誇りではないでしょうか。埋められた堀川、消えた橋は、まさに歴史の証人。そんな橋跡を眺めながら、かつて水運で賑わっていた大阪の町に思いを馳せてみるのも、感慨深い楽しみの一つになるはずです。

梅田の氏神様に残る【萬載橋】

村人の憩いの場としても愛された橋

江戸末期に造られた石橋で、現存する最も古い「浪花八百八橋」の遺構とされている。
843年(承和10年)に創建され、平安時代から梅田(旧北野村)の氏神様として暮らしを見守ってきた綱敷天神社。境内の北側に喜多埜(きたの)稲荷神社があり、その参道に「萬載橋」と書かれた小さな石橋があります。
「萬載橋」が残る綱敷天神社。
「萬載橋」の歴史は古く、もともとは別の場所にありました。神社のある神山町の北側、万歳町との境あたりに架かっていたとされています。江戸時代、大川からいくつもの堀川や井路川(※)などが造られました。神社のある旧北野村へも井路川が引かれ、そこに架けられたのが「萬載橋」と言われています。昭和の初め頃に埋め立てられ橋は近隣の場所に移され、さらに現在の地に移されました。

※井路川(いじかわ)とは主に農業用に掘られた水路のこと。
綱敷天神社に所蔵されている、1750年(寛延3年)に制作された「北野村領境総絵図」の一部。矢印の辺りに橋があったとされる。右下の〇囲み部分が綱敷天神社。神社の左側を通る赤い線が旧池田街道(能勢街道とも)だ。
今でこそ梅田周辺は大阪の中心地ですが、当時は菜の花畑が広がるのどかな農村地だったそうです。井路川は主に田畑の用水路として使われ、江戸後期になって北野青物市場ができると、市場へ物資を運ぶ水路としても利用されていたと考えられています。時代によって、その役割は変化していたのかもしれません。
さらに神社の方の話では、「萬載橋」は憩いの場としても親しまれていたとか。欄干が腰を掛けるのにちょうど良い高さで、農作業の合間の休憩スポットにもなっていたそう。漫才の原型といわれる「大和萬歳」を、この橋で披露していたのではないかという説が残っているそうです。
その名残は消えてしまったが、神社前の街道を北に100mほど行ったところに「萬載橋」が架かっていたとされる場所がある。
また、南北に街道が通る旧北野村は、市中の玄関口として「間の宿(あいのやど)」と呼ばれ、住民以外にも商人や旅人、大名行列など多くの人が行き交った歴史があります。街道沿いにあったとされる「萬載橋」も、きっと多くの人が通ったに違いありません。

★マニアさんのおすすめポイント★
綱敷天神社の北方にあった水路に架かっていた橋とのこと。今となっては水路の規模は分かりませんが、橋の長さが2m半程なので、下に流れていた水路の幅が想像できます。
[hashiato_01]店舗情報

大火で消えた曽根崎川に架かる【桜橋】

日本を代表する繁華街の始まりの場所

桜橋が架けられていた場所は、現在の桜橋交差点よりやや南。堂島アバンザの北側に「桜橋跡碑」がある。
「桜橋」は大阪人にとってなじみ深い地名ですが、もともとは橋の名前でした。現在の北新地の中を東から西に流れていた、曽根崎川に架かっていた橋です。曽根崎川は人工の堀川ではなく、淀川の支流の一本だったそうで、蜆(しじみ)がたくさん採れていたことから、別名「蜆川」と呼ばれていました。
バーやクラブ、飲食店などが密集する北新地。かつて、川が流れて橋が架かっていたなんて想像できません。北新地のはじまりは1688年(元禄元年)、河村瑞賢(かわむらずいけん)が淀川支流の改修工事を行った際、堂島川や曽根崎川の川底を掘り上げた土砂で曽根崎川の中州を埋め立て、堂島新地が生まれたことによると言われています。
桜橋跡碑から北新地を東に抜けると、蜆川跡碑が残っている。
改修工事によって曽根崎新地や堂島新地が拓かれ茶屋が並び、1730年(享保15年)には堂島に幕府公認の米市場が置かれ、日本経済の中心地として繁栄しました。堂島と新地の町々をつなぐ橋は、暮らしになくてはならない存在だったと考えられます。
『曽根崎心中』で有名な近松門左衛門の戯曲にも橋がよく登場します。そのことからも、人々にとって橋は交通手段である以上に、生活の一部になっていたことがうかがえます。
蜆川跡碑から見た、曽根崎川が流れていたと思われる場所。桜橋以外に難波小橋、蜆橋、曽根崎橋、助成橋、緑橋、梅田橋、浄正橋、汐津橋、堂島小橋の10の橋が架かっていた。
その後、明治に入ってからも「桜橋」は重要な役割を果たします。明治7年(1874年)、大阪~神戸間に鉄道が開通し、現在のJR大阪駅よりも西に大阪駅が置かれました。市街地から当時の大阪駅へ行くためには、「肥後橋」を渡って中之島へ入り、さらに「渡辺橋」を渡り堂島へ入ります。そこから曽根崎川に架かる「桜橋」を渡って、300mほど直進すると駅舎の東側に出たそうです。駅に通じる道なので「ステーション道」なんて呼ばれていたとか。
そんな、暮らしの一部だった「桜橋」の歴史は明治末まで。1909年(明治42年)の「北の大火」後に曽根崎川は瓦礫の捨て場となり埋め立てられ、橋も姿を消しましたが、大阪の繁栄を支えた橋は、地名としてその名を残しています。


★マニアさんのおすすめポイント★
橋があったとおぼしき所に「元桜橋」の石柱があります。「明治四十二年七月三十一日/北区大火にて焼失す/昭和四十八年十月十五日/安原」とあり、1909年(明治42年)に焼失したこの橋の歴史が刻まれています。
[hashiato_02]店舗情報

天下の台所の歴史が残る【太平橋】

貴重な古い町並み散策もおすすめ!

時代は不明だが、天満堀川に架けられていた「太平橋」の様子。(写真:大阪市建設局所蔵)
大川が堂島川と土佐堀川に分かれるあたりに、天満堀川が北へ延びていました。とても古い歴史を持つ堀川で、豊臣時代、1598年(慶長3年)に完成したと言われています。大阪天満宮周辺の開発を目的とし、主に船運に利用されていたそう。
堂島川の岸側にある遊歩道の入り口付近に残る「太平橋」の親柱。
その天満堀川と大川が合流するところに架けられていたのが「太平橋」です。橋の唯一の名残となる欄干の親柱は、Osaka Metro「北浜駅」26号出口を出て難波橋を渡り、難波橋北詰交差点を東に歩いたところにあります。とても大きな親柱から、立派な橋だったことがうかがえます。
天満橋から天神橋にかけての大川沿いには、江戸時代から昭和初期にかけて、天満青物市場が開設されていました。近郊で採れた野菜だけでなく、全国の乾物が船や荷車で運ばれて取引され、各地に流通していったそうです。堂島の米市、下流の京町堀付近にあった雑喉場(ざこば)の魚市とともに、大坂三大市場として「天下の台所」を担う存在でした。野菜を売りに来た農家の人たちは天満宮へ参拝したり、芝居を観たり歓楽街で遊んだり…と、華やかな大坂の町を楽しんだそうです。
現在の菅原町の様子。
物資の運搬に便利だった天満堀川沿いも市場の成長と共に発展し、「太平橋」があった北区菅原町一帯には乾物問屋街が生まれたそうです。戦災の被害からまぬがれた場所も多い菅原町には古い家や土蔵が点在し、貴重な古い町並みを見ることができます。橋跡を拠点に当時の面影を残す菅原町を歩けば、「天下の台所」として栄えた大坂の、歴史の一端を見ることができます。

★マニアさんのおすすめポイント★
4本の親柱の上面には、四隅に鉄筋が埋め込まれていた跡があり、真ん中に丸い穴が開けられています。この痕跡から親柱の上には街灯が設置されていたことが分かります。
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一番新しい掘割に架かっていた【出入橋】

鉄道よりも優れていた船運の面影

高速道路の影にひっそりと残る「出入橋」。
1874年(明治7年)5月、大阪~神戸間に鉄道が開通しました。都市の近代化により物資の運搬も陸の時代が到来したかに見えましたが、大阪の町においては川や堀川の役割は、変わらず重要だったようです。それを裏付けるのが「出入橋」の存在。1877年(明治10年)、大阪駅と曽根崎川の間に堂島掘割(※)が開削され、翌年には堂島川まで延ばされます。これによって、安治川から堂島川、堂島掘割を経て大阪駅まで、船で貨物を運搬できるようになりました。
ちなみに、堂島掘割は大阪市内で最も新しい掘割なのだそう。陸の交通網が発展する時代に突入しながらも、大阪ではまだまだ水運が根強かったことが分かります。

※掘割とは地面を掘って造った水路のこと。
昭和12年頃の「出入橋」。(写真:大阪市建設局所蔵)
曽根崎川を基点に、堂島川までの間を堂島掘割。駅構内までの間を梅田入堀と呼んでいたそうです。「出入橋」は梅田入堀の出入り口にあり、船が出たり入ったりしていたことから、その名前が付いたと言われています。
現在の風景とはまったく違う。(写真:大阪市建設局所蔵)
「これぞ、水都大阪!」という逸話が残っています。1875年(明治8年)に敷設(ふせつ)された大阪駅と安治川駅を結ぶ鉄道が、この掘割の完成によって廃止されたそう。鉄道が敷かれ始めて早々に廃線が出るなんて、大阪の船運がいかに優れていたかを知ることができる出来事です。
昭和10年(1935年)に竣工した、当時の石畳が残る。
水路や橋は戦時には手を加えられることなく戦後に至りますが、時代はいよいよ掘割を必要としない方向へと変化。1965年(昭和40年)前後に埋め立てられました。しかし、「出入橋」の美しい石畳は今も健在。その面影を現代に残します。

★マニアさんのおすすめポイント★
橋の床部分には、30㎝×18㎝(1尺×6寸)に加工された板石が敷き詰められています。日常の急ぎ足の時は気づかなかったのですが、とても綺麗な石敷です。
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時代と共に名前を変えた歴史ある【信濃橋】

江戸時代から昭和まで時代の変遷を見届けた

「信濃橋」が架かっていた西横堀川跡の真上には、阪神高速道路が通る。
四つ橋筋と本町通りが交差する信濃橋交差点から東に少し歩いたところ、高速道路の下に「信濃橋」の親柱が残っています。「信濃橋」の歴史は古く、元禄頃は「富田町橋(とみたまちばし)」や「問橋(といばし)」と呼ばれ、宝永年間(1704年~1711年)以降、西側にあった信濃町の町名に由来してこの名前になったそうです。
「信濃橋」が架かっていたのは、今は埋め立てられた西横堀川という人工の川でした。慶長年間(1596年~1615年)に長瀬七郎右衛門によって、開削されたと伝えられています。土佐堀川から道頓堀川にかけて大坂の中心部を南北に貫流し、その沿岸には様々な商家が建ち並び、中でも多かったのは材木商と瀬戸物商だったとか。
その後、時代と共に橋の近代化が進みます。1913年(大正2年)、大阪市営電気鉄道(通称市電)を「信濃橋」に通すために、鉄橋が架けられました。今は自動車が走る風景が当たり前ですが、その頃は路面電車が通り、人々の足として活躍したのですね。
橋の上を自動車が走る様子が分かる。(写真:大阪市建設局所蔵)
橋は長さ23m、幅22m。立派な橋だったことが、記録された数字からわかります。人はもちろん市電や車が行き交い、水路が暮らしの中心だった時代から陸路へと移り変わっていきました。橋の歴史を知ることで、時代の変遷をたどることができるのも橋跡の魅力です。
マニアさんも注目する、親柱に刻まれた「志なのはし」の美しい文字。
ちなみに、Osaka Metro中央線の本町駅開通に伴い改称されましたが、Osaka Metro四つ橋線の本町駅は昔、信濃橋駅という駅名だったそうです。大阪の中心地にあり、生活に欠かせない存在だったと思われる「信濃橋」。橋は姿を消しましたが、商業都市として日本の経済や流通の中心として栄えた、船場の歴史を知るのに欠かせない存在です。


★マニアさんのおすすめポイント★
高速道路の下の歩道に2本の親柱が残されています。1本には「信濃橋」ですが、もう1本には「志なのはし」と、流れるような筆づかいの文字が刻まれていて必見です。
[hashiato_05]店舗情報
【編集後記】
江戸時代から昭和30年代頃まで、大阪市内には縦横に堀川が流れ、たくさんの橋が架かっていたことに驚きました。そして、大阪人にとって橋は川を渡るだけでなく、憩いの場だったり、文化が生まれた場所だったり…。大阪の歴史そのものでした。意識して見てみれば、あちらこちらに橋跡を発見することができます。橋跡を巡りながら水都大阪の歴史をひも解いてみてください。
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